なぜこれほどまでに殺意と呪詛に満ちた楽曲が、ファンのみならず音楽批評の場においても「究極の純愛ソング」と高く評価されるのでしょうか。その鍵は、楽曲の終盤に仕掛けられた感情の反転と、野田洋次郎が一貫して描き続けてきた「愛憎の表裏一体性」にあります。
クライマックスの「あやふや」が暴く主人公の本当の心情
曲の冒頭から「僕は君を許さないよ」「何があっても許さないよ」と、呪文のように断定的な拒絶を繰り返していた主人公のトーンは、終盤のクライマックスに差し掛かると突如として崩れ去ります。
それまであれほど凄惨な拷問や復讐のシミュレーションを繰り広げておきながら、最後の最後で「なぜなら僕もまだ、君を好きか嫌いかあやふやだから」という趣旨の、あまりにも人間臭く弱々しい本音が吐露されるのです。もし本当に相手を憎み切れているのであれば、これほど膨大なエネルギーを費やして「許さない理由」や「残酷な空想」を積み上げる必要はありません。
つまり、前半から中盤にかけての狂気じみたグロテスクな言葉の数々は、すべて「まだ相手を愛してしまっている自分」から目を背け、無理やり嫌いになろうとして必死に作り上げた虚勢(防衛機制)だったことが、この一節によって一気に種明かしされる構造になっています。
歌詞集『RADWIMPS論』や当時のインタビューから紐解く「生と死」
カルチャーメディア『NiEW』などで考察されている歌詞集『RADWIMPS論』の視点や、リリース当時の音楽専門誌『ROCKIN'ON JAPAN』等での野田洋次郎の発言を紐解くと、彼の死生観と恋愛観の密接な結びつきが浮かび上がります。
野田は当時のインタビューにおいて、人間が抱く最も純粋で激しい感情は、きれいな言葉だけでは到底表現しきれないという葛藤を語っています。「愛している」という手垢のついた言葉を100回並べるよりも、愛が裏返ったときに噴出する「殺してやりたいほど憎い」「内臓まで引きずり出したい」という極限の負のエネルギーを描くことで、逆説的に「そこまで人を狂わせるほどの巨大な愛が存在した」という輪郭をくっきりと浮かび上がらせる手法です。
生と死、愛と憎悪、聖と俗。この両極端な振れ幅が同じ振り子の両端にあることを音楽として体現した点に、「五月の蝿」の文学的価値があります。